令和4年2月 北政所ねね様400年遠忌

更新日:2022年02月01日

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市長てくてく城下町タイトル
上田清

大和郡山市長

昨年11月、豊臣秀吉の正室北政所(ねね)が建立した高台寺(京都市東山区)の関係者がお見えになり、令和6年、北政所が亡くなられてから400年目を迎えるが、ともに秀吉を支えた秀長とのご縁もあるので、連携して記念行事を開催できればとのことでした。

尾張国(現愛知県清須市)で生まれたねねは、永禄4(1561)年、当時としては珍しい恋愛結婚で木下藤吉郎と結ばれたとされますが、子どもには恵まれませんでした。

一方、順調に出世を重ねた秀吉は天正2(1574)年、長浜城12万石の城主になり、さらに本能寺の変を経て大坂城に入ることになります。

天正13年、秀吉が関白に任じられるとねねは北政所と称されるようになり、まさにファーストレディーとして朝廷との交渉などに大きな役割を果たしていきました。
その発言力と政治力に対しては、イエズス会の宣教師も信頼を寄せていたといいいます。

慶長3(1598)年、秀吉の没後は淀殿とともに秀頼の後見にあたりますが、翌年、大坂城を退去して京都へ移り、関ヶ原合戦に関わることなく、やがて仏門に入り慶長10年、実母と秀吉の冥福を祈るため、高台寺を建立します。

その後、江戸幕府の意向もあり、大坂の陣にも関わることはなく、3代将軍家光の寛永元(1624)年、その数奇な生涯を高台寺で終えました。

明るく、豪快な性格で、徳川家との関係も極めて良好だったとされていますが、豊臣政権時代、郡山城に姿を見せたことはあったのでしょうか。

北政所の400年遠忌にあたる令和6年は柳澤氏の郡山城入部と金魚伝来300年、さらに市制施行70年と重なりますので、新たな視点も加えて、アイデアを募りたいと考えているところです。