令和7年12月 「おん祭と秀長さん」

更新日:2025年12月01日

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市長てくてく城下町タイトル
上田清

大和郡山市長

今年も残り少なくなりましたが、師走を迎えた奈良の風物詩といえば春日若宮おん祭で、12月15日の大宿所祭には郡山の方々とともに参列させていただくことが恒例となりました。

当日、おん祭の参勤者や大和武士のために行われる御湯(みゆ)立(たて)の巫女(みこ)は郡山の方が代々勤めるなど、佐保川の東側には、かつて春日社や興福寺の領地であったところが多かったこともあり、おん祭と郡山のゆかりは非常に深いものがあると言えるのではないでしょうか。

通説では、今からおよそ900年前、関白の藤原忠通(ただみち)が五穀(ごこく)豊穣(ほうじょう)・国民安寧(あんねい)を願っておん祭を始めたとされてきましたが、最近の研究によれば、興福寺が大和国を自分たちのものとして確保しておくため春日社の威光を借りて始めたのではないかとも言われています(『祭礼で読み解く歴史と社会』幡鎌一弘・安田次郎著より)。

しかし莫大な費用がかかることもあり戦国時代には、年により実施が難しくなっていました。

そうしたなか、440年前の天正13(1585)年に郡山城主となった秀長はおん祭の復活を命じる一方で多額の費用を負担。豪華な大名行列に当時の人々は度肝を抜かれたと伝えられています。

秀長が大和国の治政を任された背景のひとつに、強大な経済力や軍事力を有する寺社勢力を抑えるという任務がありました。

実際、秀長は検地や刀狩りを強行し、所領の没収なども行っていますが、一方で社殿を寄進したり、おん祭に資金を投じる側面もあったのです。

秀長の時代につくられた形が今のおん祭に伝えられていると知ると、何だか誇らしく思えるではありませんか。

先月、小中学生用副読本『大和大納言秀長さん~もう一人の天下人~』が完成、小学校5年生~中学生への配付が始まりました。

シビックプライドの向上につながってほしいと、心から願っているところです。