令和7年10月 「順慶と秀長」

更新日:2025年10月01日

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上田清

大和郡山市長

去る9月7日、厳しい暑さがまだ残る中、筒井町の光専寺で「筒井順慶公没後四百四十一年法要」が行われました。

光専寺には高さ約70センチメートルの筒井順慶坐像(昭和59年3月29日市指定文化財)が安置されていて、地元の筒井順慶木像保存会のみなさまにより毎年法要が営まれています。

僧形の順慶を刻んだこの木像は江戸初期の作品と考えられ、順慶の菩提寺寿(じゅ)福院(ふくいん)(筒井町本門寺の前身)所蔵でしたが、その後保存会蔵となり、光専寺に預けられたのだそうです。

木像を納める厨子(ずし)の背面に残る朱書きからこの厨子は、文化9(1812)年に筒井氏縁故の人たちによってつくられたことが知られています。

先日、郡山の在住で、実家が筒井にあるという方から「大河ドラマで秀長さんばかりが注目されるけど、順慶さんのこともしっかり発信してや!」と言われ「もちろん!」と応えたところです。

まさに、ほぼ同時代に生きた順慶と秀長。

秀長より9歳年下の順慶は、戦乱状態にあった大和において、織田信長の援助を得て松永久秀を倒し、天正8(1580)年には大和の支配を任され、筒井城から郡山城へ移りました。

興福寺の僧侶が書き継いだ貴重な記録『多聞院日記』には、天守閣が急造されたとの記述がありますが、場所など具体的なことは不明です。

その後、本能寺の変を経て秀吉の家臣となった順慶は、秀吉から引き続き大和の支配を任され、城下町づくりに努めますが、残念ながら天正12(1584)年36歳の若さで亡くなってしまいます。

翌年、順慶の養子で、秀吉のもと活躍した筒井定次が伊賀上野に国替えとなったあと、郡山城へ入ったのが羽柴(豊臣)秀長だったのです。

亡くなる直前、順慶が参戦した小牧・長久手の戦いには秀長の姿もありましたが、このふたり、ドラマではどのように描かれるのでしょうか。

初代郡山城主の順慶さんも、そして秀長さんも、もっと長生きしていればその後の歴史はどのように変わったか、興味は尽きません。

今年も10月19日に順慶まつりが行われます。