令和7年7月 「秀長さんファンクラブ誕生!」

更新日:2025年07月01日

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市長てくてく城下町タイトル
上田清

大和郡山市長

その人柄から、今もなお「秀長さん」と親しみを込めて呼ばれる豊臣秀長公。

この5月10日、秀長さんファンクラブ旗揚げ公演がDMG MORI やまと郡山城ホールで開催されました。

まずはファンクラブ会員証のデザイン。プロの作家も含めて何種類かが採用される予定ですが、そのうち本市との間で包括連携協定を結んでいる関西文化芸術高校の生徒による作品の審査結果が発表され、お城の前で斜めに空を見上げながら、決めポーズをとる秀長さんを描いた松浦里穂さん(3年生)の作品が最優秀賞に輝きました。

表彰式後のインタビュー。「秀長さん、どこを見ているのですか」に対し「未来ですかね」。当意即妙の反応に感動しました。

続く「兄弟自慢」では、5人の小中学生が自身の兄や姉、家族のことを誇らしげに語る姿がとても印象的でした。

そして昨年、本市の歴史アンバサダー(大使)に就任いただいた平山優先生の特別講演が行われたのですが、興味深いエピソードをいくつも知ることができました。

たとえば豊臣秀長は「とよとみのひでなが」と読むのが正しいとか。確かに平清盛は「たいらのきよもり」源義経は「みなもとのよしつね」ですものね。天皇から下賜された姓(かばね)ということだそうです。

なるほど!と思ったのが「言うは易し、行うは難し」をもじって「言うは秀吉、行うは秀長」。
兄秀吉の意を受けて、それこそ東奔西走を重ねた秀長さん。結局は「過労死」ではなかったのかというのが平山先生の見立てでした。

一方、毛利輝元(元就の孫)の一行が郡山城を訪れた際、秀長さんは身分の低い人たちも含め、わけへだてなくねぎらいの言葉をかけたそうで、その人柄が偲ばれるエピソードです。

秀長さんの重臣で長浜から移った小堀正次の子は、秀長さんや千利休との出会いを経て、茶人となりました。建築家、作庭家としても有名な小堀遠州です。平山先生からは、城跡歴史公園で茶会をしてはという提案もいただきました。

秀長さんファンクラブ、是非ご参加ください。