令和7年3月 「幻の天守(閣)」

更新日:2025年02月01日

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市長てくてく城下町タイトル
上田清

大和郡山市長

郡山城天守台展望施設の完成後、令和4年度の国史跡指定をはさみ、旧城内学舎跡地で進められている歴史公園の整備も最終段階に入り、今春のお城まつりにあわせて一般開放される予定ですが西側から眺める天守台の姿は新鮮で、夕日に映える石垣が新たな魅力を演出しています。

16世紀末、筒井順慶が築城に着手し豊臣秀長の時代に本格的に整備されたとされる郡山城。

その天守(天守閣)については、関ヶ原の合戦後に解体されたとも伝わりますが、どのような天守だったのか外観を示す史料がなく、また江戸時代に作成された絵図にも天守が描かれていないため実際に天守があったのかどうかも含めて、長らく不明の状態が続いていました。

そうしたなか、平成25年度から行われた天守台の整備事業に伴う発掘調査で、天守の礎石や金箔瓦が発見され、豊臣政権期に天守が存在していたことが初めて明らかになったのです。

天守の規模は1階部分が7×8間(約13×15メートル)で、5階建ての建物であったと推定されています。

豊臣政権の権威を示し、強力な寺社勢力と向き合う必要があった大和国を支配するにふさわしい天守だったのではないでしょうか。

もっともその建て方は、礎石に大きな木を縦と横に渡し、そこから柱を立ち上げるというもので天守台をしっかり固めて基礎を打たない限り、今の基準ではおよそ認めら れない工法でした。

一方、昭和の高度経済成長期には全国で多数の鉄筋コンクリート製天守がつくられます。郡山城でも昭和54年と平成16年、親子まつりにあわせて発泡スチロール製の模擬天守が登場したり、昭和58年からは追手門などの櫓 (やぐら)が再建されるなか天守の復元を求める声もあがりましたが、現状では絵図が存在しないため、国史跡における復元の許可は難しいと考えているところです。

来年、築城450年を迎える安土城も史料がほとんどなく、天守の復元は断念されました。

新たな絵図の発見や、建築技術の進歩に期待を寄せつつ、今は現地で「ココシル大和郡山城下町」のVR天守を眺めながら、豊かな歴史に思いを巡らせていただければと願っています。