まちかどレポート126

更新日:2021年03月19日

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まちかどレポート

まちかどレポート126 ケヤキと古代史の関係とは?

(まちかどレポーター 丸山)

ケヤキと古代史の関係とは?(平成22年12月27日掲載)

道沿いに生えるケヤキの写真z

総合公園前のケヤキ(槻の木)

総合公園前のケヤキ(槻の木) この前、総合公園前の街路樹の落ち葉清掃のお話をしました(まちかどレポート122 街路樹落ち葉の清掃活動 )。今日はその続編です。

有名な万葉歌に「天飛ぶや 軽の社の 斎槻 幾世まであらむ 隠妻そも」(11-2656)があります。
歌の中で「斎槻」というのは、ケヤキの古名なのです。別の歌では「ゆ槻」とも詠まれ、いずれにしても、ケヤキが聖なる神木として祀られていたことを意味します。
また、古代史では、中臣連鎌子は飛鳥の法興寺(飛鳥寺)の槻の木の下で行われていた打毬の遊びにまぎれて、中大兄皇子に親しみチャンスをつかみ、南淵請安のもとに学習に通う往復の途上に密談をこらしたという有名なエピソードがあります。
そして、斉明天皇の時代のエピソードとして次のお話しがあります。飛鳥の東にそびえる田身嶺に垣を巡らし、嶺の頂上の2本の槻の木のほとりに観(楼閣)を築く大工事を行った。619メートルの田身嶺の高所に作られた楼閣は「両槻宮(なみつきのみや)」と呼ばれていたそうです。

このように、槻の木(ケヤキ)にまつわる古代史のエピソードに想いを寄せて、大和郡山市の街路樹を眺めて見るのも、結構、面白いですよ。
冬枯れの細やかな枝が天を掃くようにピンと張った樹形は、見るからに清楚であり、春の若葉・夏の緑・秋の紅葉と年間を通じて地味で気品が漂っています。20メートル~30メートルの大樹となるこの木を万葉人が崇めたことが理解できます。

こんな事を色々と考えると、地球温暖化の今の時代、ケヤキの街路樹を大切に守っていきたいものですね。

切られたケヤキの跡の写真

植樹後の選定・管理はどうなっていたのでしょうか、疑問が残ります。可哀想な樹も…

道路沿いに生えるケヤキの写真

地域住民・自治会等が里親となって、この美しい街路樹並木に、愛情を注いで育てていきたいものです。