令和5年7月 橿原線全線開通100年

更新日:2023年07月01日

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市長てくてく城下町タイトル
上田清

大和郡山市長

今年3月「101年目の再出発」に書かせていただいたとおり、近鉄(当時は大軌)郡山駅が現在の場所に置かれたのは大正11(1922)年4月でしたが、翌12年には橿原線が全線開通、それから今年でちょうど100年を数えることになります。

もっとも時代をさかのぼると、明治5(1872)年新橋・横浜間に鉄道が開通して以降、大変便利なものではあっても、煙を吐く汽車は多くの地域で敬遠され、駅も中心市街地から離れたところに設置されることが少なくありませんでした。

そういえば、明治23(1890)年に開業した大阪鉄道株式会社の郡山駅(のち国鉄郡山駅)もお城からは距離があるところに置かれています。

しかし時代は変化し、30年後の大正9(1920)年には法隆寺・郡山間で大和小泉駅が地元の熱烈な希望による「請願駅」として開業に至るのです。

大正10年代以降、大軌や明治末に国有化された鉄道路線を中心に城下町郡山は大きく飛躍していったと言えるのではないでしょうか。

大正から昭和にかけて、郡山の金魚は国内はもちろんアジアやヨーロッパ、遠くはアフリカまで輸出されていますが、鉄道の発達はこうしたこととも大いに関係があったのだろうと思います。

一方、かつて私は郡山城を「日本一線路に近いお城」として発信してはどうかという提案をしたことがありましたが、よくよく見てみれば、明治期の駅や線路とは異なり、橿原線はまさにお城の中心に近い所を、しかも城下町の真ん中を貫いているではありませんか。北から南へ真っ直ぐ線路が引かれた訳ですが、今なら文化財の保護を巡って大きな論争が巻き起こったかもしれません。

結果、線路に近いお城ではなく線路が通るお城あるいは城下町にはなりましたが、電車の窓から往時の雰囲気を味わえるよう、今月末に予定している恒例のお城の清掃などを通じて、貴重な財産を守り受け継いでいきたいと思いますので、今後ともご理解ご協力をお願い申し上げます。