令和3年7月 それから300年!
大和郡山市長
享保9(1724)年8月1日、柳澤吉里は江戸の郡山藩邸を出発し、品川で臨時雇393人を解任、残り736人とともに東海道を「上(のぼ)った」。
道中の食事は料理人によってつくられたので、調理の道具や材料は長持13棹(さお)にもなったという。
最難所の大井川では川越えに2,215人を雇い、金22両余を要するなど、道中の経費は金591両にのぼったが、さらに藩士には道中費用(出張手当)が支給されたので、総経費は相当額になったのではないかと思われる。
一行は8月13日郡山に到着。柳澤家の前任地甲府からは家臣やその家族5,286人がすでに郡山の地に足を踏み入れていた。
金魚もこのとき伝来したという・・・。
『ふるさと大和郡山歴史事典』より
江戸時代、江戸から上方(京都や大坂など)へ行くことを「上る」といい、その反対は「下(くだ)る」と言いました。今はその逆ですが。
上方から江戸に運ばれる上等な酒などは「下り物」として喜ばれる一方、江戸に運ばれることがないものは「下らない!」・・・日ごろ私たちが当たり前に使っている言葉の語源だとか。
それはともかく、今から3年後の令和6(2024)年、大和郡山市は70歳の誕生日を迎えますが、上述のとおり、柳澤吉里候の郡山入部と金魚伝来300年という、大きな節目も同時に迎えることになります。
そこで今後、準備を始めていきたいと思いますが、コロナ禍を乗り越えた先、郡山の未来につながる力強い1年とするために、市民の皆様からも是非、アイデアを募りたいと考えていますので、よろしくお願いいたします。
力を合わせて前へ!夏の俳句です。
金魚売 露地深く来て 汗拭ふ 加藤楸邨
更新日:2021年07月01日