令和2年5月 力を合わせて前へ!

更新日:2021年03月19日

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市長てくてく城下町
上田清

大和郡山市長

 表紙でもお伝えさせていただいたとおり、新型コロナウイルスの感染防止に向けて、緊張の日々が続いていますが、こまめな手洗いや、3つの「密」つまり「密閉」「密集」「密接」を避ける、咳エチケットを守るなど基本的なことを常に行うとともに、運動不足にならないよう工夫しながら日々を過ごしていただくようお願いいたします。
 これまでも人間はさまざまな感染症や災害との闘いを繰り返し、それらを乗り越えてきました。
力を合わせてこの状況に立ち向かって行こうではありませんか。
私どもも全職員が一丸となって最善を尽くしてまいります。
力を合わせて前へ!
 そうしたなか江戸時代における郡山藩の役割を紹介する新聞記事を興味深く読みました。
(令和2年4月8日付奈良新聞)
 もちろん江戸時代にも病気の流行や自然災害はありましたが、人々が最も恐れたもののひとつが都市の火災で、享保9(1724)年郡山への国替えが決まった柳沢吉里に対しては、京都で大規模な火災があった時は消火部隊を出動させることと、あわせて奈良の防衛を命じる老中奉書(命令文書)が渡されたというのです。
京都へは一番手から三番手の総勢700人近くが出動。また奈良の防衛、といっても中心は火災への対応でしたが、いざという時には総勢558人が出動することになっていました。奈良で出火があった時は、奈良口町からの連絡を受けて半鐘(はんしよう)が鳴らされ、出動にかかりますが、京都への応援は昼夜をかけて駆けつけるしかなく大変だったことは容易に想像できます。電話など何もない時代です、京都からの救援の要請自体も人力に頼るしかありませんでした。
 こうした任務を行うため、郡山藩は譜代大名でありながら江戸に常住する老中などの要職に就任することは当初からなかったそうです。
奈良や京都の防衛に大変大きな役割を果たした人たちが数多くいました。ふるさとの誇りとして語り継いでいきたいものです。