平成26年6月 郡山藩の台所~市長てくてく城下町

更新日:2021年03月19日

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市長てくてく城下町
上田清

大和郡山市長

 今年も田植えの季節を迎えました。
 担い手不足という大きな課題を抱えながらも、何百年何千年もわたって日本人の命をつないできた米の収穫に向け季節ごとに移り変わる田んぼの風景は、やはりどこか懐かしく、これからも大切にしなければと、あらためて思います。
 ところで先日、郡山古文書クラブの皆様が出版された『和州郡山藩 幕末代官記録』を拝見すると、幕末の郡山藩が年貢を収納することができた領地は全体で15万1千石余で、その内訳は大和国が6つの郡を合わせて7万8千石余、河内国が現大東市の1千石余、伊勢国が現鈴鹿市など2つの郡を合わせて1万3千石余、そこへ近江国が現長浜市や近江八幡市など5つの郡を合わせて何と5万8千石余となっていました。
 郡山藩の領地が、近江国を中心に大和の外にも広がっていたことを初めて知った次第です。
 こうして集めた米や物産を貯蔵する倉庫兼販売所として各地に設置されたのが蔵屋敷で、郡山藩も大津の上というところに「大津蔵屋敷」を置き、役人も常駐していたのだそうです。
 代官の役割は、これらの国に出向いて年貢徴収の指揮をとることでしたが、上記のとおり、広い地域にまたがっていただけに、毎年どこかで災害があったり不作となったりで、代官には大変な苦労や心労があったことでしょう。
 しかしながら、郡山藩の財政が近畿一円からの年貢によって支えられていた、そのご縁について、今一度見つめ直すことも必要かも知れません。
 郡山城で千利休との運命的な出逢いに恵まれた小堀遠州の故郷長浜藩と郡山藩が、江戸時代以後も深い縁で結ばれていたことに驚いています。