平成24年8月 国産ペンキの誕生~市長てくてく城下町

更新日:2021年03月19日

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市長てくてく城下町
上田清

大和郡山市長

 先日、ある講演会で兵庫県在住という方から声をかけていただきました。
「茂木(もてぎ)重次郎という人をご存知ですか?市役所に問い合わせても反応がないのですが。」恥ずかしながら、私もその一人でした。
 そこで、そのことがきっかけで調べてみると、幕末に郡山藩で生まれた茂木重次郎は、10歳年上の春太(はるた)とともに、明治維新後、旧藩士の子弟教育に熱心だった旧藩主柳澤保申(やすのぶ)の影響で英語を学び、兄弟相次いで東京への留学を果たします。
 その後開成学校(現東京大学)に入学し、化学の勉強を始めた重次郎は、教職の道を選んだ春太がある人から依頼された「鉛を含まない白粉(おしろい)」の開発を任されます。鉛を含んだ白粉は、役者などに健康被害をもたらしていたのです。
 開発に成功した兄弟は、内務省から製薬の免許を得て生産を開始。経営安定とともに、もともと塗料や顔料(がんりよう)などに関心を持っていた重次郎は、洋式塗料「ペンキ」の研究から苦労の末、純国産のペンキ作りに成功し、1881(明治14)年に「光明社」を設立しました。
 兄の春太は残念ながら同年、33歳の若さで亡くなってしまいますが、この会社こそがわが国における塗料工業のパイオニアなのです(現日本ペイント)。
 語り継ぐをテーマに取り組む古事記1300年。
 今回の件でも、ふるさとのさまざまな先人に学び、語り継ぐことの大切さを痛感しています。