平成21年4月22日 「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」

更新日:2021年03月19日

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市長てくてく城下町
上田 清

大和郡山市長

 郡山城址西側の堀に面した道路脇に『柳里恭屋敷跡』と書かれた石碑があるのをご存じでしょうか。
 柳澤吉保の重臣の子として生まれた柳里恭こと柳澤里恭(のち淇園)は、将軍綱吉のもとで花開いた元禄文化の香りを全身に浴びながらすくすくと育ちました。
 八、九歳で花鳥画に目覚めたかれは、やがて中国語を学び、未知の文化にのめり込むなど、多彩な才能を発揮していきます。そして二十歳を過ぎた享保九(一七二四)年、主君柳澤氏が甲府から郡山に転封を命じられたため、ともに移住、二十四歳のとき、藩主の吉里(吉保の子)から柳澤の姓と里の一字を賜り、里恭と名乗るようになったのです。リュウリキョウというのは、中国の文化に強く憧れていた本人が、中国風に自らを呼んだものですが、その後広く知られ、長く親しまれてきました。
 今風に言えば、立派な政治家であると同時に、偉大な画家であり、同時に一流の書家、詩人、歌人、科学者、仏教学者…。江戸時代につくられたある本は「師匠として人に教えることのできる「芸」は十六種類にも及ぶ」と伝えています。このことを知っておられたのか、作家の司馬遼太郎さんはエッセイ集『余話として』で、里恭を「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」になぞらえました。郡山にとって名誉なことではありませんか。
 この本で紹介されている里恭の随筆集『ひとりね』によれば、かれは客と会うのが大好きだったそうです。
 池大雅が吉野の桜を見る途中郡山に寄ったときは、十日もひきとめたため、花の季節が終わってしまいます。しかし里恭は「花など、来年でも咲くではないか」。
 郡山藩の気概が伝わってくるような言葉です。