平成20年6月24日 「大和の水木か、水木の大和か」

更新日:2021年03月19日

ページID 10105
市長てくてく城下町
上田清

大和郡山市長

 先日、本市と関わりの深いある人物の業績を振り返る会合にお招きをいただき、深い感銘を受けました。
 その人物とは、水木要太郎氏のことで、没後七〇年とはいえ、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
 氏は愛媛県の生まれで、松山中学から東京師範学校に学んだ後、三重県の教師を経て奈良県に赴任、明治二十六(一八九三)年、奈良県尋常中学校(郡山中学校)の開校とともに同校の教諭に、同四十二年には奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の教授に就任しています。
 松山中学の同窓には正岡子規らがいました。
 氏は、奈良県に赴任した二十代後半から亡くなるまで、約半世紀にわたって市内豆腐町に住み、仕事のかたわら大和の歴史や文化を研究するとともに、大和古寺の瓦から古文書、絵地図などおよそ七〇〇〇点に及ぶ資料を収集しました(今も水木コレクションとして高く評価されています)。「大和の水木か、水木の大和か」。まさに奈良の生き字引として、新たな境地を切り開いたのです。
 氏をさらに有名にしたのが『水木の大福帳』でした。
 氏はいつも大福帳と矢立を持ち歩き、出会った人に自ら描いた似顔絵の感想や署名を求めました。著名人も数多く登場していますが、何ともユニークな、しかし人間味のある行動ではありませんか。このいわばサイン帳、何と三〇〇冊以上が現存し、これも貴重な記録なのです。
 氏にはいくつかの雅号(別名)がありますが、晩年は「十五堂」をよく用いていたといいます。
 『正月の十五日に生れたる小生は 十五歳にして十五万石の旧城下なる松山の中学に入り後十五年にして 又十五万石の城下なる郡山の中学に教鞭を執り 茲に 十五年目の新年を迎へ候 正月十五日 十五堂』

(大鎌淳正著『郡山百話』より)

 氏の業績は本市の誇りとして、あらためてしっかりと受け継いでいきたいものです。