平成20年7月25日 「一日一銭貯金」

更新日:2021年03月19日

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市長てくてく城下町
上田 清

大和郡山市長

 先日、市内のある方から「これからの農業を考える上で、この人物のことを市民にも広く知ってほしい」と、一冊の立派な本をお預かりしました。『越智太兵衛伝』(昭和四十六年発行 越智太兵衛伝記編さん委員会)。
 私も、そのお名前は聞いていましたが、伝記を読ませていただき、あらためて深く感動しました。
 越智太兵衛氏は、明治十五(一八八二)年、大阪府大和国添上郡発志院村(現大和郡山市、当時奈良県は大阪府に併合されていたのです。明治二〇年になってようやく独立を果たします)に生まれ、郡山中学校卒業後は家業の農業に従事していました。
 一方、明治三十三年に公布された産業組合法は、組合員の協力によって産業や経済の発達を図り、中小の生産者を支援することを目的とするものでした(産業組合は後、農業協同組合に発展します)。県内でも各地で組合が設立されますが、日露戦争後の農村不況を目のあたりにした越智太兵衛氏は、村の人たちに「一日一銭ずつの貯金をお互いに実行しようではないか」「年五分の複利計算で百年後には一万円になる」と説き、発志院の三八戸を設立者とする「発志院信用組合」の認可を受けることに成功するのです。組合長は越智氏自身でした。
 その後、初穂貯金や勤倹貯金などの考案で全国にも知られるようになり、大正期には治道村一円を対象とする県内有数の産業組合に発展させるとともに、氏は県だけでなく、全国の組合連合組織で要職を重ねていきました。
 その他、白川ため池の築造や、奈良県協同病院(現奈良県立医科大学付属病院)の設立等々、後世に残る大事業も含め、農業協同組合運動の草分けとして、永く語り継いでいかなければと強く感じているところです。