平成19年3月22日 まちの記憶

更新日:2021年03月19日

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市長てくてく城下町
上田清

大和郡山市長

 大和のことは地元の人に聞いてもよくわからないという、何とも笑えない話が昔からあるそうです。他府県へ行くと、いろいろな伝統や歴史があっていいですね、とよく言われるのですが、さまざまな観光資源に恵まれ過ぎていることが、かえって災いとなっているのでしょうか。外から見る目も大切にしたいものです。

 そう言えば先日、『津・大和郡山に流された浦上キリシタン』の著者、三俣俊二さん(滋賀県在住)がお越しになり、興味深いお話を聞かせていただきました。城南町の大和郡山カトリック教会にある「浦上キリシタン配流記念碑」は有名で、おおよそは理解していたつもりですが、経験したことのない大事件を前に、郡山の先人がどのように対応したのか、あらためて未来に語り継ぐ必要を感じたのです。

 明治維新後、新政府は禁教政策を継承、強化し、改宗を目的に長崎浦上キリシタン約二千八百人を十万石以上の十九藩に配流。
 郡山藩へは明治二年末、十四家族八十六人が二班に別れて到着し、茶町の雲玄寺(現・良玄禅寺)に収容されました。しかし予想に反して風呂もあり、部屋には火鉢もあってご馳走が出されるばかりか、数カ月後には「金崎」(所在は不明。ご存知の方はおられませんでしょうか)という立派な旅館に移されるなど、藩主柳澤保申の判断もあり、他の藩に比べて非常に寛大な待遇だったのです。しかし、明治四年、政府の役人にその厚遇ぶりを注意されてから待遇は一変し、なかには天川村の銀山に送られ、労働を強いられた信徒もいました。

 帰国がようやく実現したのは明治六年。現在、二年後の完成をめざす藺町線の整備にあわせて、こうしたまちの記憶をまちづくりに活かすことはできないでしょうか。先人の労苦を偲ぶという意味で。