平成18年2月20日 ただ一本の煙突

更新日:2021年03月19日

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市長てくてく城下町
上田清

大和郡山市長

市民会館南側の詩碑の写真

「たそがれの國原にただ一本の煙突がそびえている大和郡山の紡績工場の煙突である」そんな書き出しで始まる詩碑が市民会館の南側にあります(右写真)。少年時代を郡山で過ごした詩人小野十三郎が、そのころを想い出してつくった『ぼうせきの煙突』という詩で、そのころとは「明治も終わりの夏の夜」、「七十六年の周期をもつハリー(ハレー)彗星の渦」が紡績工場の屋根の「紺青の空に光っていた」という、何とも美しい光景です。

 紡績工場というのはいったいどこにあったのでしょうか。
 きっと城下町のどこからも見えたに違いない「一本の煙突」。
 そのなごりは、城跡を東へ、外堀緑地の北側、郡山駅前団地の一角にありました。道から見える石碑には「大日本紡績郡山工場跡」と書かれているのがわかります(下写真)。

大日本紡績郡山工場跡地の石碑の写真

 江戸時代、郡山は綿糸になる前の段階の「繰綿(くりわた)」が取引されるところとして大変有名だったそうです。しかし、明治維新後、すっかりさびれた町を復興するため、明治二十六年、旧小泉藩士の前川迪徳(まえかわみちのり)という人が中心となって設立されたのが「郡山紡績株式会社」でした。その後、合併を経て大日本紡績郡山工場として親しまれながら、昭和三十九年、操業廃止となったのですが、全盛期は活気に満ちていたとは、多くの方からお聞きした話です。

 そのころ市の南部で開発が進められ、昭和四十二年に完成したのが昭和工業団地で、今では県内総出荷額の三分の一をしめる地域に発展しました。金魚の泳ぐ城下町は、さまざまな産業をはぐくんできた町であるとも言えるのではないでしょうか。