平成18年4月1日 百年の計

更新日:2021年03月19日

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市長てくてく城下町
上田清

大和郡山市長

 繊維産業の不況により、大日本紡績郡山工場が廃業に追い込まれた昭和三十九年、市内の昭和地区でおよそ前例のない大規模な造成工事が始まりました。日本中が東京オリンピックにわきかえり、戦後が終わりつつあることを多くの人々が肌で感じたあのころです。

 そもそものスタートは昭和三十年にさかのぼります。
 この年、初代大和郡山市長の水田孝夫氏が明らかにしたプランは、国道二十五号線の南側に位置し、その南北を大和中央道が貫通する昭和地区の椎木町、今国府町、筒井町、西町、池沢町、額田部北町、額田部南町にまたがる地域に工業団地をつくり、全国各地から企業を誘致しようという壮大な計画でした。昭和工業団地。その面積はおよそ三十二万八千坪、甲子園球場の何と二十七個分にあたります。

 先祖伝来の農地を提供していただいた地元の方々の複雑な思いと、関係者の並々ならぬ苦労は想像をはるかに超えるものだったことでしょう。しかし、そうしたさまざまな課題を乗り越え、待望の造成工事が始まった昭和三十九年は、大阪万博の開催に向けて名阪国道や西名阪自動車道の建設が進められていた時期でもありました。

 それから四十年余り。昭和工業団地内を歩くと、テレビなどでおなじみの看板を発見して感激することもしばしばですが、地域経済や雇用に及ぼす効果の大きさを知るとともに、幅広い分野にわたるものづくりの現場と市民との交流、相互理解の大切さ、そのための場づくりの必要をあらためて感じています。
 まさに百年の計。今この時代に照らして多くを学びたいものです。