平成18年8月18日 安政の大地震

更新日:2021年03月19日

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市長てくてく城下町
上田清

大和郡山市長

 歴史を振り返ると、時代が大きく変わろうとする時期に地震や風水害などがしばしば起こっているのはいかにも不思議ですが、江戸時代の末、安政元年十一月四日(旧暦)から五日にかけての大地震もそのひとつではないでしょうか。同四日、関東から近畿を襲った「安政東海地震」は津波による大きな被害をもたらします。そのわずか三十二時間後、近畿・四国を襲った「安政南海地震」はあわせて死者約二万人と推定され、春日大社などの灯籠も数多く倒れました。

 そのころ、伊豆の下田ではロシアの使節プチャーチンとの間でわが国の開国や領土に関する緊迫した交渉が始まったばかりでした。幕府の代表は元奈良奉行で、奈良公園に桜などを植樹したことで有名な川路聖謨(かわじ としあきら)と、元江戸町奉行で、順慶を生んだ筒井家を継ぐ筒井政憲の二人。日露の交渉がぐんと身近なものとなりました。

 交渉開始直後の十一月四日朝、マグニチュード8ともいわれる地震による津波はロシア船「ディアナ号」を大破させ、やがて沈没させてしまいます。しかし、川路らの強力な後押しも受けて、地元の船大工や住民がロシア側の人々とも協力し、わが国の伝統的な技術を生かした初の西洋型帆船をわずか三か月で完成させたのです。造船国日本のスタートでもありました。その後、川路、筒井らの粘り強い交渉の結果、「日露和親条約」は締結されますが、その陰で日露両国民のこうした交流があったことを忘れてはならないでしょう。感激したプチャーチンは、協力してくれた村の名をとって新しい船をヘダ(戸田)号と名付け、無事に帰国しています。

 九月一日は防災の日。関東大震災が起こった日です。防災に対する心構えを確かめあうとともに、地域の防災力を高めるための工夫や努力をさらに続けていかなければと考えています。
 ヘダ号の模型が沼津市の造船郷土資料博物館に展示されています。