平成17年2月28日 叡尊の教え

更新日:2021年03月19日

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市長てくてく城下町
上田清

大和郡山市長

 百歳というとかつては夢のような話でしたが、ここしばらく、それこそ一世紀!をみごとに生き抜いた方々にお出会いする機会が続き、あらためて長寿社会の到来を実感しているところです。

 ところで、長生きのお手本は鎌倉時代の郡山にもありました。
 その名は叡尊。没後に朝廷から贈られたおくり名が興正菩薩。
 箕田里(現大和郡山市白土町)で生まれたのが建仁元(一二〇一)年といいますから、まさに一三世紀の夜明けとともに生を受けた叡尊は、やがて仏門に入り、その生涯を西大寺の復興やさまざまな社会事業、あるいは社会的弱者の救済に捧げたうえ、当時としてはおよそ信じ難い九〇年という歳月を生き抜いているのです。

 叡尊の名が広く知られるようになったのは、中国大陸から元軍がわが国に攻め寄せてきた際、五百数十人の僧侶とともに石清水八幡宮で行った祈りの中で、「来人」を「損なわず」相手方の船を焼失させよ、つまり殺生は認めないという教えを貫いたことだと言われますが、西大寺に伝わる座像(長い長い眉毛が印象的です)には、そうした叡尊の人柄が実に味わい深く表現されています。顔がすっぽり入ってしまいそうな大茶碗で、隣の人に助けられながらお茶をいただく西大寺の大茶盛は、そもそも叡尊が始めた行事だそうです。

 白土町から西大寺までの直線距離を測ってみると約8キロメートルでした。
叡尊が歩いたかも知れない道を想像しながらのハイキングはいかがでしょうか。形あるものばかりが文化財ではないと思うのです。