平成17年4月4日 市場の伝統

更新日:2021年03月19日

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市長てくてく城下町
上田清

大和郡山市長

 城下町と金魚をシンボルとする郡山は、戦国時代から江戸時代にかけて開発され、発展したというイメージが強いのですが、かつて奈良に都がおかれていた時代は、平城京の中で最もにぎわった地域のひとつでした。

 商工会館の北東、北郡山町の交差点を北上し、山本町バス停の北側で右折する道路脇に『西市』の跡を示す案内板が設置されています。『西市』というのは、一〇万人の人々が生活をしたとされる平城京の、右京八条二坊内につくられた政府直営の市場で、現近鉄九条駅の南東に位置し、七万平方メートルもの広さを誇っていました。
 同じく左京八条におかれ、毎月一五日まで開かれた『東市』に対し、それ以外の日はこの『西市』で、政府の許可を得た人たちが商売に精を出していたようです。

 市場内にはあわせて三十三の店があり、米や塩、油、干魚や生魚、絹や綿、珍しいものではわら靴や牛などが売られていたといいます。市は正午に開き、日没前に太鼓の合図で閉じられることになっていました。当時は貨幣に対する信用が十分でなかったため、取引の主流は物々交換だったようですが、連日、平城京の各地から集まった人々で大いににぎわったに違いありません。

 『西市』の東には、最古の貨幣とされる『富本銭』が出土したところ(市清掃センター内)もありますが、平城京繁栄のシンボル『西市』がおかれたわが郡山に、今、県の中央卸売市場があるのも何かのご縁でしょうか。