平成17年5月2日 九枚の帆

更新日:2021年03月19日

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市長てくてく城下町
上田 清

大和郡山市長

 去る四月十九日、長年の課題であった市道南回り線が完成し、皆様方にご利用いただける運びとなりました。本道路の開通により、市内を通過する車の流れが改善されることを強く願うとともに、今日に至るまでの間、ご理解とご協力をいただいた関係の方々に心から感謝申し上げる次第です。ありがとうございました。

 ところで今、内陸部における物流の主役は車と道路ですが、長い歴史から見ればつい最近まで、物資の輸送に大きな役割を果たしたのは川と船でした。なかでも江戸時代、河内と大和を結ぶ大和川では下流の河内側に「剣先船」、亀の瀬から上流の大和側にはそれよりもやや小型の「魚梁(やな)船」が、むしろでつくられた九枚の帆を立てて川面を走り、額田部の板屋ケ瀬にあった船着き場を経て佐保川を筒井村までのぼったそうです。この「魚梁船」は、亀の瀬の難所を開いた片桐且元の発案によるもので、年貢米を運ぶことが当初の目的でしたが、やがて板屋ケ瀬などの船着き場からは大和の農産物や加工品が大坂に向けて積み込まれ、大坂からは干鰯(ほしか)などの肥料や油、塩などが送られるようになりました。
 まさに大動脈であり、魚梁船は春秋の風物詩でもあったのです。
 しかし明治二十五(一八九二)年、大阪鉄道の全通により、魚梁船は姿を消してしまいます。今、板屋ケ瀬橋から見る大和川に往時の面影はありませんが、九枚の帆を想像しながら眺めると、川の風景もまた違って見えるのではないでしょうか。