平成17年10月1日 条里の村

更新日:2021年03月19日

ページID 10141
市長てくてく城下町
上田清

大和郡山市長

 『世紀の発見』『平城京「十条」あった?』『平城京の面積広がる』『造って埋めて謎の道』…先日、本市の下三橋遺跡で見つかった道路遺構は大きな反響を呼び、上記のように各新聞はこれを大きくとりあげました。
 古代の都がぐんと身近なものになるとともに、造営されたのは奈良時代の初期ということですから、稗田阿礼が活躍していたころとも重なり、そのふるさとのすぐ近くで大規模な土木工事が行われていたことになります。
 阿礼もそのようすを眺めていたのでしょうか。
 ところで、碁盤の目のように道路が整備された都に対し、郊外は「条里制」という方式で整然と区画されていたといいます。それは、郡ごとに耕地を長さ六町(約六五四メートル)四方で区切ってひとつのブロックとし、そのブロックの横の列を順に「一条」「二条」…縦の列を「一里」「二里」…と呼ぶしくみで、それぞれのブロックは三十六等分、つまり一町四方に区切られ「坪」と呼ばれました。「坪」にも番号がつけられましたので、「何条何里何坪」という形で、耕地のいわば呼び名が決められていったというわけです。
 この「条里制」にちなむ公園が美濃庄町にあることをご存じでしょうか。昭和六十三年に開設されたこの公園『条里の森』は、添上郡京南二条一里、二条二里、三条一里、三条二里の四ブロックが交差するところだとされています。公園には条里制の模型もありますので、下三橋遺跡の発掘ともあわせて、古代の都や村落、人々の生活に思いをはせてみてはいかがでしょうか。