平成17年10月26日 大納言豊臣秀長のもとで

更新日:2021年03月19日

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市長てくてく城下町
上田清

大和郡山市長

 今から四百二十年前の天正十三(一五八五)年秋、大和・紀伊・和泉あわせて百万石の領地を与えられた秀長は、人々がかたずをのんで見守る中、兄の秀吉とともに五千人もの武士を従え郡山城に入城しました。
 この時、秀長を支える重臣のひとりとして、生誕地の小堀郷(現;滋賀県長浜市)から移住した小堀正次は、町民による自治のしくみとして広く知られる箱本制度や検地など、秀長の城下町づくりに深く関わります。
 その正次には七歳になる男の子がいました。
 移住から三年後、生まれ故郷に次いで第二のふるさととも言える郡山で、男の子は生涯忘れることのできない体験をすることになります。それは、茶の道を教えるため秀長の自邸を訪れたかの有名な千利休との出会いで、障子越しに部屋の外から眺めていただけとはいえ、強く印象に残るできごとだったのではないでしょうか。
 やがて利休の指導を直接受けるようになり、秀吉の茶の給仕にも出た彼は、江戸時代を代表する茶人として後世に名を残すことになりますが、本職は幕府の土木や建築を担当する奉行であり、朝廷や幕府に関わる城や御殿、あるいは寺院の造園を数多く指導しました。
 父の跡を継いだ後、遠江守に任じられたことから、彼は小堀遠州と呼ばれるようになりますが、郡山城内のどこかで、秀吉、秀長、利休そして遠州という歴史上の人物が一堂に会する場面を想像してみると、何かわくわくするではありませんか。