まちかどレポート528

更新日:2021年03月19日

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まちかどレポート

まちかどレポート528 郡山城極楽橋再建整備工事「地鎮祭」が開催されました

大和郡山市の郡山城跡で、本丸に入る際の正式な橋だったとされる「極楽橋」の再建が近く、本格的に始まります。
2020年3月22日、柳沢文庫の車寄せの前で地鎮祭か執り行われました。
この橋再建事業は公益財団法人「郡山城史跡・柳沢文庫保存会」の事業で、2021年春の「大和郡山お城まつり」でお披露目されます。
予定では幅5.45メートル、長さ22メートル、高欄付き反り橋形式木橋だそうです。
極楽橋は江戸時代、毘沙門曲輪(二の丸)と天守曲輪(本丸)を結んでいた木橋。創建時期は不明ですが、江戸時代前期の17世紀の正保の城絵図に画かれています。

1 極楽橋の名称について

極楽橋は、近世郡山城の天守曲輪と毘沙門曲輪との間に架かっていた橋です。
極楽橋という名称は、柳澤吉里公が名付けたと考えられます。なぜなら、吉里が享保99年(1724) に甲府から郡山へ転封する以前、極楽橋や白沢門は、「玄関前橋」・「玄関前門」と称されていました。そして、柳澤家が城主時代に作成された郡山城図では、極楽橋・白沢門と記載されています。
極楽橋再建事業とは、柳澤家が郡山城主時代に架かっていた橋の再建事業になります。

2 何時から何時まで架かっていた橋なのか?

現存する郡山城図のなかで最古のものとされている国立公文書館所蔵の正保城絵図「和州郡山城絵図」には、本丸(天守曲輪)と二の丸(毘沙門曲輪)の間には橋が描かれ、本丸側には櫓が描かれていることから、正保年間にはすでに存在していたことがわかります。
また、平成3 0年10月から令和元年6月にかけて実施された郡山城白沢門跡発掘調査の成果によれば、白沢門櫓台は、天守台が築造された文禄期から慶長期初頭と離れていない時期となる可能性が高い。
そのため、豊臣秀保や増田長盛が郡山城主の頃には、門があり、橋が架かっていた可能性は高い。ただし、当時、どのように称された橋であったのか等、詳細不明。また、平成30年1 月から同年7 月にかけて実施された郡山城極楽橋(堀底部分)の発掘調査では、堀底から橋の礎石がいくつも発見。そのため、極楽橋は礎石建ちの橋であり、架け直されていたことが考えられています。
極楽橋が、いつまで架かっていたのかについては明らかではない。ただし、郡山城は明治6 年 (1873 ) 正月の廃城令によって大蔵省の所管となり、城内の建造物は奈良県によって入札、売り払われた。

祭壇に向かって座る人々の写真
建物の前で祈祷する男性の写真
白い手袋をはめた男性と和服の男性の写真
屋外で記念撮影をする人々の写真
白装束の和服の男性と後ろに立つジャケットの男性の写真