まちかどレポート348

更新日:2021年03月19日

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まちかどレポート

まちかどレポート348 郡山再発見ウォーク「額田部の古墳、西町文殊堂を訪ねる」

(まちかどレポーター 丸山)

郡山再発見ウォーク「額田部の古墳、西町文殊堂を訪ねる」(平成25年12月10日掲載)

12月4日(水曜日)今年最終の再発見ウォークに出かけてきました。 当日のコースは次の通りです。

コース:近鉄平端駅~柏木池~船墓古墳~御地遺構~俵塚古墳~西町文殊堂~額田部狐塚古墳~鎌倉墓~鎌倉山古墳~推古神社古墳~松山古墳~近鉄平端駅(約5キロメートル)

県指定文化財の木造文殊菩薩騎獅像の全貌の写真

木造文殊菩薩騎獅像は県指定文化財。文殊菩薩像は木造漆箔塗、座高38.4センチメートルで鎌倉時代の作です。

ウォークの参加者は50名程度でした。絶好の晴天に恵まれて皆楽しそうでした。
以下、主な古墳等について少し紹介します。

船墓古墳

船墓山・融通寺(融通念仏宗)の北側にある前方後円墳です。(後期前半:6世紀前半)
額田寺伽藍並条里図に瓢箪型に描かれており、「額田部宿禰先祖」と記載されています。
条里図のX線解析によると全長60メートルです。

御池遺構

昭和18年重森三玲「大和の庭園」に古代日本最初の園池として紹介されました。
用地は6.3ヘクタール。額田寺伽藍並条里図にこの池が載っています。昭和38年昭和工業団地の造営で消滅。(浄水場正門東に池の一部、小玉池が残存)

番田・俵塚遺跡

大和まほろばスマートインターチェンジ建設工事に伴う発掘調査(平成24年5月~)の結果、墳丘が削平され、周溝だけが残存した古墳を発見。幅約3メートルの周溝が直径約17メートルの円形にめぐっています。築造の時期は5世紀中頃と推定。

西町文殊堂

昭和54年、良福寺跡地に、地元の人たちによって建立された3間4方の文殊堂。堂内の木造文殊菩薩騎獅像は県指定文化財。文殊菩薩像は木造漆箔塗、座高38.4センチメートルで鎌倉時代の作(叡尊に重用された善円の作?)。獅子に騎乗し、蓮華座に座し、右手に剣、左手に蓮華を持ち、透かし彫りの光背を持っている。獅子像は高さ62.4センチメートル、文殊像と同作とみられ、文殊像と同様の落ち着きがあります。
優しい眼差しの文殊菩薩を鑑賞していると、鎌倉時代の人々の文殊菩薩への信仰の深さ、貧民救済の願い、叡尊・忍性をはじめとする南都における文殊菩薩信仰の深さが現代の私達にも伝わってきます。

額田郡狐塚古墳

額田部丘陵の西側末端部にある全盛土の前方後円墳(後期初:6世紀前半)、大和中央道下り線の下に後円部が保存されているが、前方部はすでに失われています。前方部を南に向け、全長約50メートル、後円部直径約26.5メートル、同高さ約5メートル、前方部幅約36メートル、同高さ約5.5メートル、円筒埴輪列があり、また、埴輪片が散乱しているところもあったそうです。

駐車場のスペースに参加者が集まっている写真

最終解説ポイント(会ヶ嶺)で、多門院日記に記載されている筒井順慶の鉄砲鋳造の解説や豊臣秀保の遷城の話等をしました。

額田部の古墳群を廻って想いました。「古墳」それは現世に創出された「他界」です。
古代の人々は何を求めて、あのような小高い丘を造ったのでしょうか?