まちかどレポート266

更新日:2021年03月19日

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まちかどレポート

まちかどレポート266 ふるさと歴史塾「水野勝成と郡山」

(まちかどレポーター 丸山)

ふるさと歴史塾「水野勝成と郡山」(平成24年7月23日掲載)

前方に映し出されるスクリーンの映像を見ている参加者の後ろ姿の写真

熱心に聞き入る参加者

7月14日(土曜日)、南郡山町の中央公民館(三の丸会館の3階)で柳沢文庫の講演会がありました。
講演会のテーマは「水野勝成と郡山」です。
午後1時30分、猛暑でうだるような炎天下の下、熱心な市民の皆さんが約100人余り参加されました。会場は設定温度28度の影響もあり、かなりの暑さで皆さん扇子・団扇で暑さを凌いでおられました。

講演を聞いて分かったのですが、水野勝成は徳川家康のいとこで、刈谷藩の藩主(愛知県)として「大坂夏の陣」に参戦し、その後、1615年~19年の間、郡山藩主となり、その後、福山藩(広島県)へ国替えとなり、福山城を築いたそうです。
僕は、今日のこの日まで、郡山藩主となった水野勝成が郡山城再建のため、洞泉寺に仮住まいしたことしか知らなかったので、「今日の講演会に参加して良かった」と実感しました。

柳沢文庫の平出学芸員の解説では、まず、1600年の関が原の戦いで石田三成側に味方した郡山城主の増田長盛が追放される等の影響から、「大和郡山の政治的位置付けが後退した」と具体的にその時代背景を説明されました。

スクリーンの映し出された映像の前で解説をする平出学芸員の写真

パワーポイントを有効に活用した平出学芸員の解説

水野勝成が郡山へ入って以降、郡山城周辺だけでなく、現在の生駒市や奈良市等に領地がまとまって設けられたことを古文書から解説。「山城や河内との最短ルートを確保していた。「大坂の陣」後の臨戦態勢の中、効率的に兵を動かせるルートをいくつも持っていたのでは」と指摘されました。
政治的に複雑な様相を呈している大和において、近畿圏内に分散的に領地を保有していたのは、柳沢藩が滋賀南部・三重・河内等に領有地・飛び地を持っていたのと同様だと思いました。

この日、上田市長が挨拶に来られました。上田市長は、過日、市町村広域災害ネットワーク協定調印式の関係で、愛知県の刈谷市長とお話をする機会があり、刈谷藩の初代藩主となった水野勝成のお話で意見交換されたそうです。
調印式の際、刈谷市長から「水野勝成物語」というDVDをいただいたそうです。水野勝成は日向守に任じられ、刈谷を守るためには、喜んで鬼になりましょうと言い活躍したそうです。
郡山の城主の国替えに関連付けて、現在の私達は、今後、郡山だけでなく関係する地域(他府県・市)に連携の輪を広げて行くべきだと思いました。

スクリーンに映し出された映像の前でマイクを持って話す上田市長の写真

上田市長の挨拶

なお、柳沢文庫では、夏季常設展「郡山藩をめぐる歴史」を9月9日まで開催してます。
皆さんも一度夏季常設展に出向かれることをおすすめします。