まちかどレポート165

更新日:2021年03月19日

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まちかどレポート

まちかどレポート165 大納言祭

(まちかどレポーター 丸山)

大納言祭が執り行われました。(平成23年4月26日掲載)

桜の花や鮮やかな黄緑色の葉の奥にある石の階段の写真
寺の入口と大納言祭と書かれた木の看板の写真

八重桜の美しい4月22日、箕山町の大納言塚で大納言祭が行われました。
会館の2階から祭具(重たい提灯台等)や長テーブル・折りたたみ椅子を運び出して、祭壇設営したのですが、今年は天気予報どおり、お昼前から雨となりました。

テントの下にあるいくつものパイプ椅子の写真

テント張りや祭壇作りに四苦八苦した関係者の皆さんから、「雨降りになって残念や!!」との声がしきりに聞こえてきました。祭りのスタートの2時30分まで時間がない、時間がないと皆で言いながら、急遽、大納言会館内に設営し直しとなりました。関係者皆さん、ご苦労さまでした。雨に打たれてパイプ椅子が泣いているようです。

お供え物や掛け軸の並ぶ部屋の写真
白黒の幕の前に並ぶ石灯籠の写真
最前列に紫色の着物をきたお坊さんが三人座りその後ろにスーツを着た男性二人が座っている後ろ姿の写真
畳の部屋に座る人々の後ろ姿の写真

歴史書を見ると、天正13年9月3日、秀長は兄秀吉とともに5,000人を従えて入城、6年たらずの郡山在城でした。秀長は大和、紀伊、和泉の三国で百万石の太守として郡山に入国し、それにふさわしい城郭と城下の整備をしたそうです。その足跡の特徴は次ぎのとおり。
第一、自治組織ともいえる「箱本の制度」を設けました。
第二、城下繁栄のため大和国中の商売を禁止して郡山で行うようにし、酒造りも郡山のほか奈良にのみ許可し、城下の町々に独占的特権をあたえる(紺屋町等)という力強い商業保護の政策をとりました。
第三、内町の十三町の地子(地租)を免除して優遇しました。
このようにして、郡山の城下町は 急速に発展をとげたのです。

そして、秀長(1540-91年)は天正19年(1591年)1月22日郡山城内で没し、その遺骸はここ箕山町の地に葬られました。後、この墓域を大納言塚と呼ぶようになったそうです。
秀長は、郡山城在城中の大半を大坂城西ノ丸の屋敷に詰め、豊臣政権を千利休とともに 側面から支えましたが、やがて病を得て郡山城内で病没しています。
郡山の基礎(礎)を築いた大恩人として町衆はその遺徳を偲んで、その墓前に花や香華が絶えることはなかったといわれています。
現在では「大納言奉賛会」を中心にして、毎年4月22日に「大納言祭」が町を挙げて盛大におこなわれています。

ところで、来年は2012年ですね。
2012年マイナス1591年(秀長公の没年)は421年となり、数え年で大納言祭実施日の4月22日と一致します。
また、2011年マイナス1777年(安永6年、大納言塚の完成年)は234年となります。
数字合わせとなりますが、422、234、そして5,000(郡山入城時の数)を覚えておいてください。
秀長公のずば抜けた指導力・統率力と郡山の民衆の逞しさと努力により、郡山の城下町は急速に発展をとげたのです。

時代変わって、今年、東日本大震災によりズタズタになった東北地方の被災地も、420年前の秀長公時代の郡山のように復活して繁栄することを心から願っています。これからも、それぞれの立場で継続した支援・サポートを続けていきたいものですね。