まちかどレポート63

更新日:2021年03月19日

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まちかどレポート

まちかどレポート063 郡山城趾散策ルートで気になること。

(まちかどレポーター 丸山)

郡山城趾散策ルートで気になること。~松陰の門とは? 松陰門の鎮石って何なの?~(平成22年7月26日掲載)

ひっそりと立つ松蔭門趾の写真

郡山高校から郡山高校城内学舎方向に向かって歩いている時、「松陰門」という石碑と「松陰門鎮石」という標石が目に入ります。その時によくこんな質問を受けます。
石碑に書いてある「松陰門(しょういんもん)」って何なの? 道路北側にある「松陰門鎮石」って何ですか?
「まつかげ門」でなく「しょういん門」という質問。「どの石が鎮石ですか?」いう質問。
ガイド中によく聞くこんな質間に、答えたいと思います。

  • 「松陰門」とは何か?
松蔭門櫓台北の石垣の写真

松陰門櫓台北の石垣

「しょういん門」と読まれた方の殆どは「吉田松陰が郡山藩に来た事があったんだ。!」と思い込んでおられたようです。吉田松陰が来藩した事はありませんでした。
そもそも、松陰門は、本多家時代には「御新宅前御門櫓」といい、柳沢吉里の時代に「松陰門」と改められました。
松陰門を詠んだ和歌としては、「色かへぬ ときわの松のかげそへて 千代にやちよに すめる池水」があります。これは宝永3年(1706)2月、柳澤吉保が神田橋邸内に新築した大納言行殿に徳川綱豊(当時大納言、後の六代将軍家宣)が訪れ、綱豊から吉保が拝領した和歌と伝えられています。

  • 松陰門櫓台の鎮石とは何か

郡山城には、松陰門櫓台に「鎮石」なるものがあるとされていました。写真中央の大きな石が「郡山城鎮石」と伝えられていました。

草むらに立つ松蔭門鎮石の写真

松陰門跡北側の検出地側にある「郡山城鎮石」の標石

松蔭門南側石垣内の大きな鎮石の写真

松陰門南側の石垣内の大きな積石(伝鎮石)

それは、松陰門南側の石垣内の大きな積石です。また、同時に反対側の松陰門櫓台北の石垣の上部にも同様の大石があり、南側の伝鎮石と一対かもしれないといわれていました。
この松陰門の北側(左袖)石垣は、1996年11月から1997年3月10目にかけて修復のための積直し工事が行われ、工事最中の、1997年1月11目、修復工事現場である北石垣の地中約1メートルから、五輸塔地輪1基が発見されました。
五輸塔地輪は方位に沿って、かつ、平面に埋設されていた。この付近は本丸等とは違って切石のみで転用石が混じらないので、伝承の「鎮石」と仮定しそのまま元の所に戻された。この地輪には、四面ともに胎蔵界大日如来を表す種子で、汎字の阿「ア」(anutpada)が刻してあったそうです。この五輸塔地輪石が鎮石かどうかは未だ確定できませんが、この工事に係わり、松陰門跡北側の検出地側に写真の「郡山城鎮石」の標石を据えたそうです。