源九郎白狐囃子

洞泉寺にある源九郎稲荷神社は宇迦之御魂神(保食神・うけもちがみ)を祀り、保倉神社とも呼ばれる。
長安寺村に草庵を結んでいた僧宝誉に一夜夢枕に立った白狐が老翁の姿となって「われを郡山城の巽に祀ってくれるならば、守護神となって、城を守るであろう」と告げたので、宝誉は、城主豊臣秀長にこのことを語り、秀長は城内竜雲郭に祀ったといわれている。現在地に移ったのは享保4年(1719)。
源義経が兄頼朝の討手を逃れて、吉野山の落ちのびた時、白狐が佐藤忠信に化けて、側室静を送り届けたので義経は謝意から源九郎の名を贈り、それが社名の由来になっているなどの話が伝えられる。
土地の人から「源九郎さん」と親しまれる神社の祭礼が源九郎稲荷祭。昭和初年頃洞泉寺廓が繁盛の時、楼主たちが中心となって「白狐渡御」として市内を練り歩くようになった。戦時中中止されていたが、昭和53年、大和郡山青年会議所、市青年団体協議会、源九郎稲荷神社奉賛会などが復活させ、続いて同58年より4月上旬のお城まつりの行事として行われるようになった。祭礼当日には午後から百衣に狐の面をかぶった少年少女が白狐囃子(びゃっこばやし)に合わせて手拍子よろしく踊り歩き、市内目抜き通りを経て城内に至る。

“白 狐 囃 子”


大和郡山源九郎さんは
いくさ守りの稲荷さま
武将義経 千本桜
踊る忠義の源九郎

真鳥打ち取りゃ 天下は泰平
  これも源九郎さんの御神徳 


(作詞:酒井雨紅、作曲:中山晋平、振付:島田裕)


【源九郎狐伝説】
天正13年(1585)9月豊臣秀長は郡山城に入った。
かれは城の南に宝誉上人という高徳の僧がいると聞き、城内に招いて法話を聞いて感服し、帰依した。上人は、ある夜源九郎と名のる白狐が白髪の老人の姿で現れ、郡山の南に御堂を建てて荼枳尼天(だきにてん)を祀れば守護神になろうと言ったことを物語ったところ、秀長は上人に御堂を建ててやった。上人は三河挙母郡霞渓山洞泉寺の寺号をここに移し、自ら源九郎荼枳尼天の像を刻み、境内の別の祠堂に安置して日夜勤行を怠らなかった。
秀長は源九郎の神通力を試そうとある日、上人に命じて源九郎を呼び寄せたところ、源九郎は裃を着用し、一族を連れて登城し、秀長の前で霊験を示した。驚嘆して秀長は洞泉寺内に神祠を建てて源九郎狐を祀らせた。
元和元年(1615)4月、大坂夏の陣の戦いで大野主馬が郡山を夜襲焼討し、火が城の内外を焼き尽くそうとした時、洞泉寺住職天誉和尚が源九郎天に祈願するとその霊験により鎮火したので民衆の信仰は一層深まった。
江戸時代にはその信仰は全国的になり、諸国からの参詣者で賑わったという。