郡山中学校(旧制)

前身は、明治9年8月三の丸の旧郡山藩邸を仮用して小学校教員講習の目的で開校されていた郡山予備校で、10月に堺県師範学校分局郡山学校と改称され、校長に奥山永隆が任命された。翌10年10月に五軒屋敷の柳澤武禰邸に移され、さらに14年1月二の丸に校舎が新築された。この頃の生徒は男153人、女35人であった。同年10月には大阪府立郡山中学と改称、さらに19年10月大阪府立郡山尋常中学校と改称。やがて、明治20年1月奈良県の再置で奈良県郡山尋常中学校と校名も変わった。明治26年10月1日郡山尋常中学校と吉野尋常中学校を合併して、奈良県尋常中学校が設立されるとき、学校設置場所決定に関しては他の有力候補地を排して郡山尋常中学校校舎(二の丸)に決定され、この日をもって郡山中学校の創立日としている。初代校長は正木直彦である。同29年4月に畝傍、五条、に分校ができてから郡山の名が冠せられるようになった。同30年に野球部が誕生し、翌31年に奈良師範学校と同校前芝生で試合を行った。たまたま奈良遊覧中の皇太子殿下(後の大正天皇)の目にとまり、にわかに天覧試合となった。結果は8対7で郡山の負けとなっている。
同32年新しい中学校令で畝傍、五条分校が独立したので、6月21日に奈良県立郡山中学校と改称された。
大正12年11月と同13年9月に東京駒場競技場で開催された全国中等学校陸上競技選手権大会で堀鉱一郎らが活躍し、連続優勝している。北海中学の南部忠平が活躍したときである。
同14年8月京都において行われた全国青年演武大会に剣道部が優勝し、昭和8年8月に野球部が甲子園の全国野球大会に初めて出場し、秋田中学に勝ち平安中学に敗れたことなど特筆すべき事項である。
戦後、学制の改変によって奈良県立郡山高等学校となった。