郡山紡績

「和州郡山」といわれていた時代から「郡山繰綿」の名は綿町と共に有名であった。しかし、廃藩置県以後さびれていく一方の城下町となり、その挽回と、旧藩士の授産問題もあって旧小泉藩士前川迪徳と谷口真貞が奔走、唱導した結果、他に40人の発起人を得て郡山紡績株式会社の設立をみた。資本金25万円。初代社長は前川迪徳であった。創立委員に天野善七(取締役330株)、湊秀太郎(監査役305株)、吉田方正、中村喜重郎、八木直吉(各取締役300株)らのほかに柳沢保承(1000株)を筆頭株主に推している。総株数10万株、株主316名からなる。
業務の開始は27年9月、当初の紡機は5376錘(主に英国製)。
会社は数年後に早くも不況に見舞われ、社長も天野善七、吉田方正次いで今村勤三(安堵村、県最初の衆議院議員)等と交替している。明治40年には摂津紡績と合併、大正7年には平野紡績と合併して大日本紡績の郡山工場となったが、後、ユニチカと社名を変更し、昭和39年郡山工場の操業を廃止した。