明治維新によって最大の問題になった一つに禄を失った各藩の武士の生活問題があった。新政府は金禄公債の発行や授産資金の貸付等の施策を講じ、殖産興業への道を開いた。
廃藩後の柳沢家は15万1288石に対する現石5万9490石の10分の1すなわち5949石となり、藩士1902人も大削減を受けた。筆頭家老柳沢権太夫は表高3000石を60石として以下数等に分けているが、下級の者ほどその削減はゆるやかで「損上益下」といわれた。また郡山藩は減石高を以て「拾ヶ年授産之方法凡積」(およそづもり)を立て、1つの家産として禄券を交付し、削減によって積み立てた資金で10ヶ年ごこにその禄券を藩に回収し、授産の方途とした。
このような禄券法を採用し10年後の授産の道を考慮したのはきわめて稀で、全国277藩の中で鹿児島・高知・彦根と郡山の4藩だけであった。
明治23年政府の授産事業がうち切られた後、郡山士族の授産事業として中田虎雄ら10名が1213人の代表として桑園、農具、蚕室具・雑具と資本金15000円の残金9168円4銭9厘6毛の引き渡しを県知事を通じて受けている。
『授産所規則』第1条に事務所は城内字陣甫郭に定め、第2条には所有の資産は「柳沢伯爵の恩恵に係り、士族共有の財産とする」とある。
この事業は明治36年桑の木の老朽などで収支が償わないようになりうち切られている。
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