浦上キリシタン

大政奉還後、明治政府は幕府のキリシタン迫害をゆるめるどころか、むしろ強化し、慶応4年=明治元年(1868)長崎浦上キリシタン約2800人を名古屋以西の10万石以上の19藩に配流した。郡山藩にも明治2年の暮れ、14家族86人が送られてきた。彼らはまず北茶町の雲幻寺(現在の良玄寺)に収容され間もなく町内各所に移されたが、初めは藩主柳沢保申の意志により待遇は他藩に比べ、非常に良かった。
しかし、明治4年太政官の巡察使が来てからは郡山藩の待遇が良すぎると注意を受け、以来、待遇は一転。
明治5年津藩から送られて来た28人のキリシタンとともに、郡山城三の丸に移されてからは、少し待遇が良くなったものの、同年暮に幼少年は奈良へ移されて軽労働を、他の者は天ノ川銀山に送られて労役を強いられた。
やがて明治政府はカトリック教諸外国の非難により明治6年3月、キリシタンを放還することになり、郡山藩預かりの114人は帰国を許された。しかし、配流の5年間に9人が病死している。
大正15年殉教者6人の名を刻んだ墓碑が雲幻寺境内に建てられたが、昭和44年、郡山カトリック教会(城南町)へ移され、浦上キリシタン配流記念碑となり、毎年11月3日に遺族も参加してミサが行われている。