天誅組

文久3年(1863)8月前侍従中山忠光を総帥とする天誅組は、孝明天皇が攘夷御祈願のため大和に行幸される先鋒として、五条代官を討ち倒幕の第一声をあげた。ところが「8月15日の政変」により京都情勢が一変し、大和行幸は取りやめとなり、三条実美以下攘夷派は逃れた。名文を失った天誅組は高取城攻撃に失敗し、十津川方面へ逃れた。京都守護職は、鎮圧のため畿内各藩に出兵を命じた。
柳沢藩には8月21日に追討の命が下り、総大将大山将監以下2000人(一説には800人)が動員され、26日に郡山を進発したが、下市に着くまで5日もかかるというノロノロ行軍であった。他藩も大同小異であったので、9月4日に郡山・和歌山・津・彦根の4藩は、すみやかに討伐するよう督促された。郡山・彦根両藩は10日を期して天ノ川本陣を総攻撃開始し、やがて和歌山・津藩も加わって天ノ川本陣を落とし、天誅組は十津川に逃れ、9月中旬に北山郷に出、最期に鷲家口で潰滅した。この戦闘に他藩の多くと同様に郡山勢の戦意は薄く、桜田門外の変の怨みで独り奮戦した彦根勢に「郡山ではなくおくれ山だ」と笑われたのも郡山勢が天誅組の義心を知っていたからであろう。
この討伐戦中、軍情視察に来た会津藩士が郡山勢の陣を押し通ろうとして斬られ、生き残った者が腹いせに郡山藩家老藪田忠左衛門をその自邸で斬殺して立ち去るという事件が起こった。幕末の世相を物語る事件である。
以上は郡山藩の行動概要であり、小泉藩については以下の通り。
8月23日京都所司代は小泉藩にも出兵を命じたので、小泉藩はただちに出兵し、30日に檜垣本(ひがいもと・吉野郡大淀町)に到着、9月1日から下市方面で吉野川沿岸を警護していた。その時の軍勢は600人とも300人ともいわれる。9月19日に五条・須恵・新町の3カ村役人が、津藩へ差し出した報告書に「片桐主膳正様御内 杉原胆助様 嶌田造酒助様 川口吾助様 榎本直右衛門様 浦野衛守様 右御勢三百人余」とあるから300人前後の出兵が正しいと思われる。
9月6日頃、小泉勢は吉野川を南に渡って下市に迫った。8日に郡山勢が下市の広橋の塁へ進攻したが、地の利を知る丹生川上神社の祠官橋本若狭が、法泉寺を本陣として、付近の村民を集め、広橋峠近くで砲火を交えた。その頃、小泉勢が原谷村の椎原峠から側面をついて天誅組の塁に迫ったので若狭は利あらずと長谷村(ながたに・下市町)に転進した。その後の小泉勢の行動は詳でないが、郡山・彦根・津などの各藩と協同して行動したものと思われる。