金魚がいつごろ日本に入ってきたかは諸説があって断定できないが堺の安達喜之が寛延元年(1748)に刊行した『金魚養玩草』に文亀2年(1502)に明国から泉州左海(堺市)に輸入されたと述べている記録が最も有力。
郡山の金魚の起源について確実な資料はないが、明治23年7月刊行の『大日本水産会報告第98号』に古川松柏の書いた「大和郡山に於ける金魚育養の方法」が載り、元文3年(1738)郡山藩士佐藤三左衛門が溜池で発見したとある。また、享保9年(1724)柳澤吉里が甲府より郡山城に入部したとき、家臣横田又兵衛が金魚を観賞用に持参したのが始まりであるともいわれている。
このように郡山の金魚の由来については明らかでないが、後者の説が最も信頼性があると思われる。なぜなら、当時甲府では金魚を珊瑚樹魚として珍重し、柳澤里恭が金魚を描写した作品をいろいろと残しているからである。このように郡山の金魚については、江戸時代中期に始まり、その末期から明治初年に及んで、その名声を得たとするのが妥当であり、その隆盛の陰には藩士佐藤家代々の努力があったことは事実である。また、東岡町の高田屋嘉兵衛が文久2年(1862)広島からオランダ獅子頭を買い入れた。その姿は非常に優美で、しかも飼育に成功し、郡山金魚の代表となった。オランダという名は郡山で言い始めたが、購入先の名をとって広島とも呼んだという。
幕末頃には下級武士家の内職的なものとなり、廃藩置県後はこれらの武家と周辺の農家とによる集団的養魚場ができ、大量生産時代を迎えた。
このような金魚の大量生産は我が国では郡山が草分け的な存在であり、その後全国一の地場産業として名声を博してきた。発展も陰には、特に小松春鄰父子及びこれら藩士の事業援助に力を注いだ旧藩主柳澤保申、その後継者保恵の功績があった。小松春鄰は明治10年、内国勧業博覧会に出品、明治35年には郡山特産金魚組合を結成、同36年にはアメリカ、セントルイス博覧会に郡山金魚を出品した。一方柳澤保申は明治20年「柳澤養魚研究場」を設立、同33年には後継者の柳澤保恵も「柳澤養魚場」を経営し、品種の改良、種苗魚の提供等を行い、旧藩士たちに養殖を奨励している。大正期には諸外国からも注目され、昭和2年には郡山金魚輸出組合が設立され、同10年頃はその最盛期を迎え、全国生産の60lを生産するにいたった。第二次世界大戦により、金魚養殖はほぼ潰滅の状態となったが、終戦を迎えると再び金魚漁業協同組合、金魚輸出組合などを結成、輸送方法の改良と共に諸外国特にアメリカ、カナダ、オーストラリア、その他ヨーロッパ各国へ多量に輸出するようになった。もっともこれらの発展には養殖に適した自然環境があったことも事実。農耕用溜池が周辺に豊富に存在していたこと、溜池に自然発生するミジンコ類が金魚の稚魚養成に欠かすことのできないものであったこと等である。
大量生産された金魚は主に和金、琉金、出目金でいわゆる大衆魚であるが、ランチュウ、オランダシシガシラなどの高級魚も養魚の対象として盛んに生産された。現在ではその生産品種も20種を超え、生産数も年間数億尾といわれている。
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