明徳舎

万延2年(1861)雑穀町の植村新次郎宅に創設された心学の修養道場。
心学は享保14年(1729)石田梅巖を学祖として京都に生まれた社会教化運動で、各宗派の長所を自由に摂取し、日本固有の神ながらの道を軸として、教理を日常生活に結びつけ実践道徳を説くものであった。
郡山には明和(1764〜72)の頃梅巖の高弟、手島堵庵が遊説に来たり、天明年間(1781〜89)には布施松翁がしばしば来遊して講座を開いている。郡山では勝間為七、道具屋七兵衛、衣屋庄兵衛などがこれに参加して一時は隆盛であった。大坂明誠舎の講師岡本孝道が、雑穀町の植村新次郎宅を本拠に「修身斉家」の道を説き、明徳舎と名付けて庶民の修養道場とした。