安元杜預蔵

幕末の柳澤藩士(1828〜1854)。森田節斉の門人で槍術にすぐれ、性格豪放、憂国の志が強かった。嘉永6年(1853 )5月吉田松陰が郡山に立ち寄った時、一夜時局を論じて意気投合したことを松陰は兄への手紙に書き残しており、久坂玄瑞はその遺稿集で「天下三奇士」の一人と称えている。
同年6月米軍艦が浦賀に来航した時、沿海防備の幕府の命を受けた藩は杜預蔵(とよぞう)を隊長として出動させようとしたが、たまたま瘍を患っていたので、医師は化膿するのを待って手術すると言ったが、杜預蔵は「我が国の大事、目前に迫る。徒に日を過ごせない」と自ら刀をとって患部を切開したという。その性格の一端が知れる。
安政元年(1854)7月病のためわずか27歳で亡くなったが、節斉からその死を聞いた松陰は「惜しい有為の人を」と嘆き悲しんだといわれている。永慶寺に葬られる。
杜預蔵の名はその祖先がかつて、藩主に「春秋」を講じた時、藩主が感嘆して「晋の杜預(どよ)に比すべし」としたことから杜預蔵の名を賜り子孫も代々その名を継いだという。ちなみに杜預は中国の晋の人。鎮南大将軍となって呉の国を征服し、戦って負けたことは無かったという武将。