柳澤保申

郡山6代藩主、甲斐守(1846〜1893)。弘化3年(1846)郡山城中で生まれる。嘉永元年(1848)3歳で父保興の死により家督を継ぐ。始め時之助、保徳(やすのり)、次いで保申(やすのぶ)と改める。
安政5年(1858)皇陵修理のため、松材3000本を朝廷に贈る。文久元年(1861)5月江戸高輪東禅寺での英国公使館暴徒襲撃に際しての功績のため、英国皇帝より金牌1個を贈られる。同3年8月天誅組事変により吉野へ出兵、慶応4年(1868)3月戊辰戦争に従軍。明治2年6月版籍を奉還して郡山藩知事になる。同18年3月静岡県久能山東照宮宮司を勤めた。金魚の研究に力を注ぎ、同20年柳沢養魚研究場を設立した。
また、教育振興のため小学校・中学校(現郡山高等学校)に多額の金品と土地を提供したり、旧藩士のためには授産の方途などを講じた。その他明治初年のいわゆる「浦上四番崩れ」のキリシタン信徒に対する温情ある処置に見られるように保申は開明的な政治家であった。明治26年10月没。永慶寺に葬られる。