野垣内町

寛永16年(1639)4月姫路から郡山へ入部した本多政勝は,武家屋敷の不足を補うために,外堀の内側に残されていた野垣内村の農家20軒を外堀の外側に移し,その跡地(野垣内村領)に切米取りの武士に銀2枚ずつを与えて住まわせたのが町のはじまりである。このとき,本多家の菩提寺である浄真寺,良玄寺の寺地にも当てられた。
延宝8年(1680)12月15日,城下町を襲った未曾有の大火でこの町の侍屋敷や寺院が焼失した。安永3年(1774)の大火でも再び焼失している。天明6年(1786)の郡山藩旧記によると,町は南北104間,道幅1間半,持家15軒,借家11軒。外町13町の一つで,年貢地であった。
明治22年に大字西野垣内と改称された。同26年には郡山紡績株式会社の工場が建てられたが第二次大戦後に廃止された。現在は住宅都市整備公団大和郡山駅前団地となっている。