郡山3代藩主、甲斐守(1753〜1817)。宝暦3年(1753)4月江戸幸橋の上屋敷で生まれる。安永2年(1773)父信鴻引退後、家督を継ぐ。初め久菊、保明、のちに保光と改める。堯山(ぎょうざん)の号は有名。
藩主としての治績も良く、名君の評判が高かった。父祖に劣らず文学芸術を愛し、和歌、俳諧、茶、書などいずれも素人離れしていたという。歌は京都の日野資枝に、茶は主として石州流片桐一法庵に就き、千家流の宗匠にも深く私淑し、教仰して師弟の礼を執っていた。文化8年(1811)隠退し、自分の頭髪を慈雲の葬られた河内の高貴寺の墓所近くに埋めた。これは「郡山城主飲明居士柳澤保光公理髪の碑」として今も残っている。同14年1月20日没。東京月桂寺に葬られる。
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