綿町

綿を扱う商人の住んでいた町。「箱本十三町」のうちで箱渡し第一番目と定められている。天正19年(1591)8月には地子免除の恩典を受けている。豊臣秀長の城下町繁栄策による同業者の町で営業上の特権を与えられ、秀長の跡を継いだ秀保もこの保護政策を継いでいる。
奈良春日神社に奉献された石灯籠の中に「慶長十三年 郡山綿町二十人仲間」があり、この町の繰綿商人の隆盛がしのばれる。
延宝の大火ではこの町も類焼し、常念寺も焼失している。
元禄の大火にも、この町の居宅32軒が類焼している。
天明6年(1786)の調査によると、町の長さ130間、道幅3間5尺、本家53軒、借家17軒となっている。
この町は「高田町大門付町割」によって材木町・紺屋町・今井町・矢田町の住民と交替で、高田大門の勤番を義務づけられていた。
幕末に、この町の河内屋治郎兵衛の別邸で、森田節斉の門人中村直記が医業のかたわら私学を開いた。
明治13・14年頃、成瀬仁蔵がこの町でキリスト教の説教場を開き、町の教育文化活動に多大の影響を与えている。
明治維新後の行政所属は、明治9年12月25日から「ヤマト国第2大区 2小区」に属し、明治17年7月1日からは「添下郡23戸長役場」に属していた。
同21年4月の「町村制」により郡山45カ町村が合併して新しく郡山町となり、綿町は大字となった。その時の戸数は49戸、人口は162人であった。