光慶寺

今井町にあり、瑞厳山と号し、真宗西本願寺末寺。寺伝によれば、開基比叡山皇慶阿闍梨が長元元年(1028)山城国久世郡岩田村に草創し、その後、平康頼の長子左衛門尉清基の末男千代寿が出家して光慶と号し、岩田村光慶寺の住職になった。後に蓮如上人の教化に帰依し、天台宗を改め真宗となる。
天正16年(1588)今の良玄寺の地に光慶寺を創立し、元和3年(1617)現在地に移転、延宝8年(1680)12月12日新町からの出火で焼失。
現在の本堂は、その後の再建で桁行き18.35b、梁間20.25b、入母屋造り、向拝1間、本瓦葺き、市内の真宗本堂の代表的建築である。
嘉永7年(1854)6月の大地震に寺門は倒壊している。梵鐘は市指定文化財。本尊の木造阿弥陀如来立像は室町時代初期の造仏。保存の襖絵は宝暦(1751〜64)の頃、豆腐町に住んでいた表具師藤田常栄の筆によるもの。寺に平康頼の赦免状と称する古文書が保存されている。
赦免状は、謀反が発覚して鬼界ヶ島へ流された俊寛の一味である丹波少将成り恒、平判官康頼に対して平清盛が出したもので「重科者遠流を免ず、早く帰路の思ひを成べし。今度中宮御産所によって非常の赦行之間、鬼界ヶ島之流人少将成恒、康頼法師赦免之状如件、治承二年七月二十六日、入道相国花押、少将成恒殿、康頼法師」とある。これが光慶寺に伝わったのは、織田信長が近江国石山寺を攻めた時に僧唯宗が石山方に味方したため、山城を追われ郡山に移った時持って来たからだという。