鍛冶町

天正16年(1588)の春岳院文書『郡山惣町分日記』の14町のうちに「鍛冶屋町」とあり、その名を連ねている。本町の枝町であるから「箱本十三町」には含まれない。しかし、天正19年(1591)8月の「箱本十三町」地子免除のときには、ともにその恩典に浴し、豊臣秀長の跡を継いだ秀保もこの保護政策を継いでいる。
『郡山町旧記』(天理図書館蔵)に「鍛冶町 天正十九卯年十一月鍛冶町を改め南・北・中とする。北町は火鉢町として別所なり」とある。別所とは新しく開いた土地をいう。
元禄の大火の時、この町では持家10軒・借家28軒が類焼している。
鍛冶町の通りは、城外の京街道・奈良街道に通じる要衝に当たるので大門を設置して通行者に注意を払い、厳重な警備体制を布いていた。この門の勤番は「鍛冶町大門付町割」によって本町・茶町・藺町・塩町・魚町・奈良町・雑穀町・西奈良口町の住民が交替で務めることになっていた。
また、この町には、江戸時代を通じて、公衆に知らせる法度・掟・禁制などを書いた高札を立てておく高札場があった。
天明6年(1786)の調べによると、町の長さ242間半、道幅2間1尺、持家160軒、借家146軒であった。
嘉永7年(1854)6月13日昼から15日の朝にかけての地震で鍛冶屋大門・庚申堂が倒壊し、居宅1棟が崩れた。
明治維新後の行政所属は、明治9年12月25日から「大和国 第二大区 2小区」に属し、同17年7月1日からは「添下郡 第23戸長役場」に属していた。
明治21年4月の「町村制」に基づいて、45カ町村が合併して新しく郡山町となり、中鍛冶町・北鍛冶町・南鍛冶町は、それぞれ大字となった。その時中鍛冶町は戸数29戸、人口167人、北鍛冶町は戸数27戸、人口178人、南鍛冶町は戸数28戸、人口140人であった。



【鍛冶町大門】
鍛冶町(おもに鍛冶職人が住んでいた町)の通りは城外の京街道、奈良街道に通じる要衝に当たるので、大門を設けて外来者などに注意を払い、厳重な警備体制を整えていた。
大門は慶長年間に伏見の惣門を移築したものと伝えられている。勤番は町民の責務で、大門付町割によって本町・茶町・藺町・魚町・奈良町・塩町・鍛冶町・雑穀町・西奈良口の住民が交替で勤務についた。
西観音寺町の南端の小川に架かっている橋を渡ると広場がある。その突き当たりに土塀があり、塀の左側は8間半の土居で、塀の右端に大門が東面して建てられていた。門の北端で西に延びる石垣と土居があって、土居の上には竹矢来が組まれていた。
門を入るとすぐ左手に間口1間4尺、奥行き7間の番所があり、番所から南が鍛冶町であった。番所の前の道を隔てて真正面に高札場があった。門は外町と内町との境にあり、門の左右に延びる外堀が内町と外町の境界をなしていた。
門の南側には高付上池・宮本上池・常念寺裏池・材木町裏池・など421間の外堀が高田町大門に続き、北側は広島池・小川町裏池・正願寺裏池・代官池・鴨ヶ池と続いて西に延びる外堀をなしていた。
門の入口近くに牛馬杭があって「牛馬口附のもの引はなさす往来のさわりになるへからす」の注意書きがあり、門の傍らに石の道標が立っていた。
大門周辺の竹矢来の結い直し、土居の草刈り、薮の清掃などは町から人夫を出し、藩からは同心が監督にやってきた。
番所には城主定紋入りの高提灯2基が備え付けられて春日祭礼・南都出火の時など番所前に立てることになっていた。
鍛冶町は藩主参勤交代の道筋に当たっていたので、月番町奉行は、この大門で見送り、また迎えた。
嘉永7年(1854)6月13日の昼から15日の朝にかけて、数回にわたって起きた大地震で、この大門は倒壊したが、間もなく再建されて明治維新に及んでいる。