柳澤吉保

万治元年12月江戸市ヶ谷で生まれる(1658〜1714)。7歳の時、館林25万石綱吉の勘定頭をしていた父安忠に伴われ、初めて綱吉に謁見、延宝3年(1675)家督を継ぎ、保明と名のる。その時の家督は530石であった。4代将軍家綱に子無く、綱吉が将軍となると小納戸役となり、以後栄進して元禄元年(1688)側用人1万2030石を与えられ、初めて大名に列せられた。以後、しばしば加増を受け、同7年7万2030石、川越城主となり、初めて城持大名になった。
同11年老中の上座、事実上の大老格となり、9万2030石、同14年松平姓と将軍の名の一字を許され、名も吉保と改め、松平美濃守吉保と称した。
宝永元年(1704)には甲斐、駿河で15万1000余石(実質22万とも25万石ともいわれた)を賜ったが、同6年綱吉死去と共に隠退して六義園に住み、正徳4年(1714)11月2日死去し、甲府永慶寺に葬られた。子孫に残した「楽只堂家訓」は有名。