平泉鬼貫

元禄時代の俳人(1661〜1738)。本名は上島与惣平、号は宗邇(むねちか)。摂津伊丹の人。晩年平泉姓に改める。元禄4年(1691)6月31歳で郡山城主本多忠平に仕える。藩での役目は長年不明であったが、近年『自伝』の発見により初め30人扶持「大坂役目」と判明。大坂留守居の支配下で資金の調達など藩政の実務を担当した。
鬼貫は医術にすもぐれ、九州三池藩にも勤めていたが個性が強く、郡山でも年長の同役の松波勘十郎と藩財政改革の方策、性格共合わず、藩主の慰留にもかかわらず元禄8年2月退職。この時の退職の理由は母の病気であったが藩主は回復したら必ず戻れと、2カ年に見合う給与200石を支給している。こうしたことは本多藩はもとより他藩でも初めてのことであったらしい。郡山の後、福井大野藩に京都留守居役として仕えた。元文3年没。