本多政勝

徳川四天王の随一といわれた本多平八郎忠勝の孫で、本多忠朝の次男(1606頃〜1671)。徳川秀忠に仕えた。寛永16年(1639)姫路城の城主から松平忠明と交替して郡山城主となる。禄高15万石に次男勝行の部屋住料4万石を加えて19万石。郡山では江戸時代を通じて最高の禄高であり、「和州郡山」の名が全国に知れた時代であった。政勝自身は「鬼内記」とか「大内記」といわれたほどの豪勇の士で、藩政も活力に溢れていたという。
当時は、藩士池田正式をはじめ、俳諧をたしなむ者が多く、俳書のほか和算書などの刊行も行われている。正保2年(1645)政勝は小堀遠州を茶会に招いている。
政勝入城の5月5日「内町十三町」からそれぞれ5本の「のぼり」を出して祝っている。これが「郡山旌旗揃(のぼりぞろえ)」の始めと伝えられる。寛文11年10月江戸で亡くなるが、遺言により遺骸を郡山に送るため同月3日、江戸を出発、途中箱根の関で、手形の無い遺骸は通さないと阻まれたが、小田原城主稲葉美濃守の計らいで通行を認められ、17日ようやく郡山に着き、良玄寺で火葬に付し、埋葬された。
その跡目相続について本多家は大名として複雑な相続関係にあったので家中は二分して争った。世にいう「九六騒動」である。