一説には「豊良」(とよら)というところに村を作ったのでこの名があるといい、また、養老年間(717〜24)に、蘇我氏の氏寺であった葛上郡の豊浦寺がここに移建されたので村名となったともいわれている。
村は旧片桐村の東北隅で、鉄道道路の東側にあって、村社八幡神社の森を後ろにして、昔から「豊浦八軒」と呼ばれて、人口は増えもせず減りもせず、最も小さい村を形作っている。筒井順慶の葬式目録に、会葬者として「豊浦彦三 添下郡」とあるのは、本村の郷士で筒井の摩下に属していた人と思われる。
寛永4年(1627)10月、小泉初代藩主片桐貞隆が死去したのでその子貞昌が27歳で家督を相続することになるが、この年の11月、弟勝七郎貞晴に3000石余を分知している。その3000石の中にこの豊浦村の216石が含まれている。貞晴は、この村に屋敷を設け、永く分家として続いた。
貞昌は、この屋敷造営に銀700匁を支出している。
明治21年の町村制施行によって小泉村・池之内村など10村落をもって片桐村をなした。その時豊浦村は戸数16戸、人口88人であった。
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