広島町

『和州添下郡郡山城旧記』に「観音寺町西ノ方侍屋敷十六軒建 名付而広島と云 此広島と云安芸の広島衆召抱られ爰に居をしむ也」とあり、これは元和5年(1623)に改易となった福島正則の浪人広島衆を、時の城主松平忠明が抱えて住まわせたのが町のはじまりで、広島町の地名となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功によって49万8000石余の広島城主となった福島正則は、豪勇の武将で、たえず徳川氏から警戒されていた。元和3年(1617)春の長雨で太田川が洪水となり、城囲いをはじめ広島の町中の堤防、橋梁が決壊、流失した。しかし、幕府の許可を得ないで修築した罪として6月2日に、芸備両国を召し上げ、替え地として津軽に4万5000石を与すという改易を伝えられ、福島の家臣4000余人の大半が浪人することとなり、その一部を忠明が召し抱えて、観音寺町西側に屋敷を設けて住まわせた。
この町の侍屋敷ほど城主の変わるたびに、増設と取り壊しを繰り返したのも珍しい。
延宝7年(1679)入部の松平信之は8万石と、先の本多家に比べて家臣も半減しているので、侍屋敷百軒あまりを壊し、その跡を田畑に戻した。広島町では10軒あまりが壊されている。
貞享2年(1685)入部の本多忠平は、12万石であったので、広島町にまた侍屋敷を急造し、享保7年(1722)本多忠烈が5万石に減ぜられたので、家臣の半数に暇を出し、広島町の侍屋敷を壊して畑地とした。
享保9年、入城の柳澤吉里は15万石を領し、それにふさわしい武家屋敷を整えたので、広島町には15軒の武家屋敷ができていた。