奥平信昌の四男、下総守(1583〜1644)、母は徳川家康の娘亀姫。
元和元年(1615)大阪の陣後の論功行賞で第一位に選ばれ大阪城主となり、同5年10月水野勝成の後をうけて12万石で郡山城主となる。
入城後ただちに二の丸屋形の造営にかかり、藩主の居所とした。鉄門・一庵・丸門・柳門などの城門を家康の命令で伏見城から移した。
五軒屋敷も今の姿になり、広島福島家の浪人30余人を召し抱えて住まわせたのが今日に残る広島町。
寛永9年(1632)7月には3代将軍家光を南都見物の折、郡山城に迎えている。同年9月には家臣達と奈良奉行所との間で水谷神事能に絡んで大きな騒動が起こっている。
同16年3月忠明は、関西総探題といわれた姫路城へ15万石で本多忠勝と交替している。
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