文禄4年(1595)7月豊臣秀保の後を受けた郡山城主(?〜1615)。20万石。早くから秀吉に仕え、始めの300石から小牧山合戦では2万石をあたえられている。豊臣政権の五奉行の一人。
郡山入城の翌年から外廻り惣堀の普請にかかり、秋篠川の流路を奈良口で東に変えて佐保川に落とし、その川跡を堀に利用した。
現在の郡山北小学校と奈良口町の間の堀がそれである。
西は丘陵の断崖に沿い、いくつかの溜池を利用してこれを連ね、北は窪地に沿う堀を巡らし、南は箕山を限りとした。この外堀の完成によって、郡山城の縄張りが定まった。筒井順慶の郡山入部から約20年を経過している。
慶長元年(1596)には紀伊・和泉の支配も命じられ、「文禄検地」でも活躍している。慶長5年に関ヶ原合戦では西軍に味方して敗れ、郡山城を明け渡して高野山に追放の後、武蔵岩槻に蟄居、元和元年5月に没した。岩槻蟄居中に大阪の陣が起こり、徳川方から間諜となるように勧められたが、敢然として断ったという。
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